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グローバル戦略を考察してみる

激動の明治とよく言われるが、欧米諸国と対等に肩をならべるために、「如何にして日本国としての威厳を押し出すか」が主題だった時代である。

 

日本の近代史で、普段はあまり表舞台にあがらない二人の人物を取り上げて、グローバル戦略を考えてみたい。

 

明石元二郎(あかしもとじろう、1919年10月26日55歳没)

 

ドイツ留学、フランス駐在武官などの経験を生かして、対ロシア工作の中心人物になった明石元二郎(元)総監の遺言である。

 

司馬遼太郎の「坂の上の雲」に、ロシアの諜報員として登場するが、この方がいなければ、旅順港の防衛状況とか、バルチック艦隊の進路もわからなかったので日露戦争の結果は覆っていたかもしれない。

 

1919年に福岡の自宅で肺炎を患ってなくなるのだが、台湾の総督として志半ばでなくなることが無念だったに違いない。

 

 明石の台湾統治方針は「300万人ともいわれる台湾の本島人をどこまでも日本人として受け入れ、日本人の中に繰り込んで、本来の日本人と見分けもつかず、差別もない人々にする」というものであった、とのこと。

 

語学は堪能で、ドイツ語、フランス語、ロシア語などは他の追随を許さなかったと言われて、最終的には六か国語を習得したという。

 

赴任先につくと、約半年間は自宅にこもって、新聞を徹底的に読みこなす訓練をしたという。

 

電子手帳や、ネットで語彙を調べる手段などない時代の、外国語の習得の難しさは想像に難くない。

 

習得した語学をツールとして、日露戦争開戦後、明石は、ストックホルムを根拠地としながらドイツ、フランス、スイスなど欧州各地を飛び回って、諜報網の確立や、反帝政ロシアを標榜する団体への支援などの後方攪乱工作に従事した。

 

旧日本人墓地で、ご本人の墓は台湾の北側へ移されたが、当時の明石元二郎氏の鳥居だけがひっそりと台北の静かな公園にたたずんでいる。

 

 

辰野金吾(たつのきんご、1919年3月25日64歳没)

 

建築家の辰野金吾は、イギリス留学を経て、84年からは工部大学校の教授を務めるなど建築教育に専念した。

 

東京駅や日本銀行など、東洋随一と謳われた西洋建築を生み出した偉人である。

 

台湾にも数多く、辰野が携わった建造物がある。

 

代表的なのは旧台湾総督府。ここは、台湾における最高統治 機関として君臨した行政庁舎である。赤煉瓦と花崗岩の白石を混用して造られ、重厚感をまとってた建造物だ。

 

総督府新庁舎の設計は総督府土木局が担当。東アジア地域への進出をうかがっていた欧米列強に対し、新興国の日本はいかにして国力を誇示するかという命題に向かい合っていたことより、建物のデザインは威厳を全面に押し出したものが求められた。

 

総督府は敢えて西洋古典様式を採用し、欧米のスタイルを踏襲しつつ、その中で国威を誇示するという手段を選んだとされている。

 

デザインについては公募という形でプランを募り、辰野金吾は評審委員としてかかわっている。

 旧台湾総督府庁舎

まとめ

 

令和元年の今年は、奇しくも両氏の没後100年となる。

 

情報機器の目覚ましい革新の恩恵により、寝る間を惜しんで新聞で勉強したり、貴重な外貨をつかって欧米に学習しにいくことなく、スキルが身につく時代である。

 

両氏の歴史を振り返るうちに、「真のグローバル戦略とはなんなのか?」考えさせられる。

 

一つのヒントは、戦前育ちの台湾人がよく引き合いに出す美徳観念として武士道があがる。

 

狭義の武士道は、「文武両道の鍛錬を欠かさず、自分の命を以って徹底責任をとる」という武士の考え方を示し、広義の武士道は、この考え方を常識とする日本独自の思想を示す。

 

 あらためて、自分にこの武士道が実行できているか、すこし酒でも飲みながらじっくり考えてみようとおもう。