サーフィンで全治6週間
「バキッ」。
台湾の東海岸で波乗りを楽しんでいた時のこと。
ポイントはビーチブレイク。波のサイズはセットで頭オーバー。
ショートボードの中級車が数人、のちにけがをさせられる羽目になるロングボードの数人が入っているくらいの、比較的すいている状況での事故だった。
大きな波が来た時に、2、3メートルとなりのロングボードの人の板が飛んできた。
あまり経験がなさそうなロングボードの彼だったが、大きな波が入ったときにちょうど運悪く近場に居合わせてしまった。
私はその大き目の波を潜り抜けようとしていた水の中で、ロングボードが激しく身体めがけてるとんできたのである。
ぶつかった瞬間、腕と肩に激痛が走り、頭の上を「星がくるくる」とまわった。
やっとこそそ海の上に浮上した時には、その彼が何食わぬ顔で沖へとパドルアウトするのが見えた。
痛みをこらえながら「Hey、Hey!!」と彼の方向へ声を出し、左手にボードが当たったことを必死に伝えた。
故意ではないだろうが、彼は2、3度振り返りながら沖へと漕ぎ出しそうになるので、すこし、ムッとしながら、今度はもっと大きな声で「Heeeey !!!!!」と左腕をあげて、岸へ上がるようにサインをだした。
波のセット間隔が長かったことで、九死に一生を得る感じで、どうにか岸にたどり着く。
左手は痛みで、ウェットスーツも脱ぐことができなかったが、友人の援助も借りてようやく、服に着替えて台湾、現地の病院へ直行した。
病院につくやいなや、レントゲンをとり先生の前に。
「これ、手術じゃないと手が使い物にならなくなるね」と言われてボーゼンとしたのを憶えている。
前腕部には、尺骨と橈骨の日本の骨があり、手のひらを返す動きを実現している。
この骨が折れると当然ながら、手のひらが反せなくなってしまう。
問題はまだあった。
骨折した場所は「台湾」だったことだ。
医者によれば、全身麻酔による手術になることより、標準的なオペによると、最低二泊三日の入院が必要になる、ということだ。
たまたま運悪く、三日後に日本への帰国を予定していた私は、二泊三日の入院はできない。
「うーーーーーん」と、頭を抱えている私に、医者が冷たく「悩むのは外でやってくれる?次の患者きてるから」との冷たいコメント。
やむを得ないので、添木をしてもらい、日本で手術することに。
帰国後、あらためて病院で診察をすることになった。
12月25日。
世間ではクリスマスの話題一色で恋人や家族と楽しそうに過ごしているが、私はといえば忙しいなか付き合ってくれている妻と外来受付の待合室。
年末の駆け込み需要のせいで、病院は外来の患者で満タン。
朝8時に病院で受け付けをしてから、手術の日程が決まったのが、夕方の16時。
手術は不幸中の幸いなことに、12月26日ということになった。
手術の時間は焼く2時間とのことで、手術の概要はこうである。
1.全身麻酔2.15cm程度前腕を開く3.チタンプレートを6つのチタンボルトで整形
人生初の全身麻酔。「眠ったまま、おかれなかったらどうしよう」なんてことが、頭によぎる。
手術当日
朝7時に起床。
台湾と違って、日本は湿度が低く、のどがかわく。
手術は午後13時半。人生初の全身麻酔を前にも緊張しながら手術をまつ。
手術は予定通り13時半に始まり、約二時間半で、終了。
手術は無事終わったが、全身麻酔のせいか身体がうまく動かない。
手術した左手は鈍い痛みで、その日はあまり寝れなかった。
最後に…
サーフィン歴30年の中で初めて、骨折のトラブルに遭遇した。
考えてみれば、頭や首などにボードのフィンが刺さるよなことでなく、不幸中の幸いであった。
来年は怪我を完治して、また新たな気持ちで波乗り道に励みたい。
台湾、北東の町「頭城」で素敵なひと時を
台北は暖かさが戻り、日中は27度のポカポカ陽気となった。
12月下旬というのに、半袖が丁度良い季節だ。
日本から友人が来ていたので、宜蘭の頭城に海に出かけた。
台湾の東海岸にある宜蘭は、台湾山脈を背中に、目の前はきれいな海が眺められる、まさに「風光明媚」な土地である。
台北からは台湾山脈を抜ける「雪上トンネル」を通ると、自家用車ならものの40分で宜蘭につく。
この「雪上トンネル」は15年前にできた、トンネルの長さとして、世界でも指折りの
建造物である。
全長13km弱ありところどころ、台湾山脈の美しい山間部の景色を見ながらドライブを楽しめる。
宜蘭県の田舎町「頭城」にほどなくして到着した。
ここから、イルカが見られる観光船がでる「鳥石港」までは、600メートルくらい。
海は目と鼻の先だ。
「頭城駅」のいい感じに寂れた商店街の台南料理の店で持ち帰りをオーダーする。
店:台南鹽水意麵
まさに「おばあちゃんの家」がある商店街にひっそりとその店はある。
Googleの地元民の評価も4.3とかなり高得点である。
今回は主食として「台湾のそぼろご飯」をゲットだ。
この店自慢の秘伝のタレをたっぷりとかけてもらって、持ち帰りだ。
豚肉の旨味もさることながら、ちょうどいいくらいの豚の脂身がちりばめられている。
続いて、おかずに台湾のソウルフード「ルーウェイ」をいただく。
煮卵、豚の大腸、揚げ豆腐、昆布をトッピングする。
これも、店の秘伝のつけ汁で温めてから、盛り合わせてくれるのだ。
この盛り合わせに、宜蘭特産のネギをパラパラと振りかけてくれて、出来上がりだ。
夜のビールのおつまみにも最適だ。台北市にも美味しいルーウェイ屋さんは沢山あるので、ぜひ試してほしい。
最後に豚の耳「ミミガー」だ。沖縄料理にもたびたび登場するが、コリコリとした触感と、なんとも言えない繊細な脂身のハーモニーが実に素晴らしい。
一盛で30元(100円)で、ビールが2本はいけるのではないだろうか?
(行き過ぎならば、ご指摘いただきたい)
台湾郊外の何気ない風景に、台湾の昔ながらの生活感を感じられる街「頭城」。
天気の良い日をねらって、ぶらぶらとドライブに出かけてみてはいかがだろうか?
空気がよく、美しい台湾山脈が一望できる頭城で、台北では見ることのできない「空気感」を是非味わっていただきたい。
濃厚な脂身がギュッと詰まった地鶏料理
台湾はとにかく鳥がうまい。
「濃厚な脂身がギュッと詰まった地鶏料理」をお知らせしたい。
ここは、台湾の北東部の温泉街「礁溪」の一角にある「地鶏のくんせい(燻製)」で、台湾人なら知らない方がいないくらい有名な店だ。
台湾全土に5店舗展開しており、ここは創業30年の総本店である。
焼き芋を焼くようなカメを使って、地鶏を燻していく。
カメはこの店の別注したてで、カメの中は400度の高温で、地鶏の旨味をギュッと閉じ込めていく。
使う薪だが、日本なら広葉樹のナラやクヌギが一般的だが、この店では台湾ならではの龍眼木という、とても硬度が高く、燃焼率が良い薪をチョイスしている。
地鶏以外のサイドオーダーもかなり充実しており、台北市内では、お目にかかれないような、レアな山菜も盛りだくさんである。
店には、地鶏のガラからとった、濃厚の地鳥スープが飲み放題になっており、通は、このスープをご飯にかけて「鳥スープご飯」で食事をしめる。
今回は、水蓮という野菜炒めと、季節の竹の子をオーダー。
サラダの付け合わせなどに使われるヨーロッパ原産のクレソンと同じ、水辺にすむ水生植物である。おもに台湾南部で採れる野菜だ。
水生植物らしく水分を多く含んでおり、スポンジ状の構造より、シャキシャキした味わいとともにほのかに蓮の花の香りがするのも特徴的である。
あまり知られていないが、台湾には様々なタケノの種類が存在する。
桂竹(ケイチク)、麻竹(マチク)、緑竹(リョクチク)、孟宗竹(モウソウチク)。
今回は麻竹の炒め物をオーダー。
シャキシャキとした、歯応えが最高の一品だった。
さて、本日のメインイベント、地鶏だ!
地鶏を丸々一匹焼いてしまうのだ。
比較のために、台湾の生ビールを引き合いに。
地鶏の大きさが分かるだろうか。
さすがにこのまま、カブリつくわけにはいかないので、店の人に解体をいらい。
ものの3分ほどで…。
ちなみに、お酒の持ち込みは「無料」。
呑助さんは、好きなお酒を持ち込んで欲しい。
私は台湾産のシングルモルトを持ち込ませてもらった。
台北の観光に少し飽きたなら、郊外に日帰り旅行を企画してもらうのも良い。
日帰り旅行の「トリ」に、地鶏の料理を食べて楽しいひと時を過ごすのも良いのではないだろうか。
タピオカミルクティーの歴史
「タピる」。
“タピオカドリンクを飲む”ことの略称として、JC,JKなど若者を中心に大ブームとなっているが、本日はタピオカの歴史を振り返ってみたい。
珍珠
タピオカは中国語で「珍珠」(ジェンジュ)といい、日本語で真珠のいみである。
黒色のタピオカであれば、さしずめ「黒真珠」といったところであろう。
デンプンを使って5センチから10センチくらいのボール状に仕上げたもので、ときにはサツマイモや、馬鈴薯などを粉末状にして使用することもある。
台湾の紅茶の歴史
日本統治時代の1906年から、欧米に向けた輸出商品として、当時の台湾の台湾総督府が、お茶の生産から、紅茶の生産へとシフトさせた経緯がある。
このタピオカミルクティーのミルクティーである「泡沬紅茶」であるが、発祥までの歴史は諸説あり面白い。
「泡沬」とは泡立てることだ。紅茶をシェークして泡立たせるということで、日本で言うと抹茶を、’茶せん’でで泡立てるイメージに近いと思う。
もともとの泡沬紅茶には、タピオカは入ってなく、単なる紅茶だったわけだ。
この紅茶をシェイクして泡沬紅茶として出した元祖と言われている店を紹介する。
台南にある老舗「雙全紅茶」
70年の歴史を持つ、台南の老舗紅茶屋だ。ここの店主が、カクテル用のシェイカーで紅茶を泡立たせることで、口当たりをまろやかにしたところ、そのおいしさに評判が広まったとのことだ。
台中発祥の老舗「春水堂」
こちらの店は、観光ガイドや、台湾の紹介番組などで報道されているし、日本にも支店がかなりできているので、ご存じの方はおおいであろう。
面白いエピソードがこの春水堂にあったのでご紹介する。
中国のことわざで、役に立たない三要素ということわざがある。
「冷茶、薄酒、 老女人」
中華圏では日本と違い、冷たいお茶は味も素っ気もないとされている。
薄酒も、せっかくの酒も薄いと酔えない。
年寄りの女性に誰も興味はない、という意味である。
さて、春水堂はこの禁断の「冷たいお茶」に挑んだのだ。
0度に限りなく近い紅茶をシェイカーで泡だてる「泡沬紅茶」は、予想に反して台中の春水堂を起点として大ブレイクし、台湾各地て見かける、お茶のテイクアウトの店舗の発展につながるわけだ。
ちなみにこのシェイカーで泡立てる方法は、日本のシェイクがヒントになっているという。
私も春水堂のオリジナル「泡沬紅茶」は大ファンである。茶葉をふんだんに使ってあるので、紅茶の味が非常に濃厚である。
また、シェイクすることで、紅茶のエグミがなく、非常にまろやかな味が特徴的である。
まとめ
「タピオカミルクティー」はタピオカがミルクティーに入っているだけの飲み物ではないことが分かっていただけただろうか?
台湾紅茶と日本との関係や、シェイクからの着想など、タピオカミルクティーが誕生した裏には、日本が密接に関係していると言える。
子供さんと「タピる」ときにでも、すこしでも思い出してみてもらえればと思う。
台湾の身体に優しい可愛らしい爆撃機
「台南22号」。
鉄人28号のような強そうなイメージの名前だが、台湾のとうもろこしの品種のことだ。
1990年に商用生産された、このとうもろこしは、現地の農家さんのご尽力によって数十年の歳月を費やして、ようやく完成されたものだ。
台湾のとうもろこし事情としては、日本と違い春と秋の二回が収穫の時期である。
特徴は、粒が大きく、噛んだときの歯応えの弾力があり、焼いたときの香りがとっても良いことである。
その特徴ゆえに、台湾のレストランからの指名も数多く、常に品薄状態という、幻のとうもろこしなのである。
台湾にとうもろこしの歴史は200年と、日本の500年に比べると比較的短い。
清朝時代に漢民族が、台湾に来る前からポルトガル人によって持ち込まれたと言われている。
日本と同じく、国内需要の99パーセントを南米諸国からの輸入に頼っており、国内で生産している量は、ほんの「4万トン」にすぎない。
あまり、広く知られてはいないが、台湾の農家さんは、とても誠実で、プライドが高い。
地元の伝統的な市場にいくと、そんな情熱の塊りの農家さんが、手塩にかけて有機栽培農法で育てた農産物がたくさん売られている。
台北市内に旅行でこられたら、是非、朝市をぶらぶら散策してみてほしい。
私のおすすめは、雙連捷運站にある朝市だ。
さて、とうもろこしだが、栄養価が非常に高いことはよく知られるとこだが、あの清の王朝の西太后も1日一杯の「とうもろこし粥」を食べていたことで有名だ。
効用としては、1.胃腸の粘膜を守ることで、体内に入った毒素が胃腸の壁を攻撃することでのダメージを減らす、2.動脈硬化を和らげることによる血管にまつわる疾病の予防になる、3.脳細胞の代謝を助けることで脳を健康に保つ、4.利尿を促し毒素の排出を促す、ことが知られている。
また、とうもろこしの果実以外にも、効果があるのだ。
とうもろこしの葉には、癌の予防効果があり、とうもろこしの芯には、むくみ、浮腫に効果があり、とうもろこしの根には、膀胱に炎症があって、排尿痛や残尿感、頻 尿などのある疾患に効果がある、とのことだ。
鉄人28号の名前は、アメリカの爆撃機B29から由来するものだが、「台湾の台南22号」はそれをはるかにしのぐほどの効用をもたらしてくれるスイーツなのだ。
台湾にお越しのさいは、少しだけ早起きして近場の朝市に出向いて、日本では見かけることはない食材を見に行ってみてはどうか?
サムライスピリッツ イン 台湾
台湾と日本を行き来する機会が多い私は、スターアライアンスをよく利用する。
台湾、日本間のスターアライアンス航空会社とはいえば、全日空とエバー航空機だ。
最新のCNNの世界の航空会社ランキングの第3位に全日空、第8位に台湾のエバー航空が名を連ねている。
1989年の設立以来、重大事故を起こしていないことが評価されている。
このエバー航空の創立者、長島 發男氏は日本国籍だったこともある、「大の親日家」だったことをご存知だろうか。
1927年、台湾が日本統治時代に、船大工の父親のもとで生まれ、父親の仕事について、台湾の澎湖島、基隆、蘇澳を転々としながら、幼少期を過ごしたという。
同氏は、中国、台湾の企業幹部に絶大な人気をほこる、稲盛和夫氏の、他人に尽くす「利他」の精神に非常に近い考えかたをお持ちの方である。
1968年、長島 發男氏、通称「HATSU」さんは、15年物の中国の船を日本から購入し、エバーグリーン海運を創業する。
まさに自転車創業で船手をした同氏だが、創業当時から、先を見据えビジネスのビジョンを明確に持っていた。
創業当時、取り扱う貨物の種類もこだわりなく雑多な積荷船から、効率よく荷を輸送出来るコンテナ船への事業展開や、取り扱う航路も利益率の低い中東線から、欧州線へと移行することで「世界ナンバーワン」の海運会社を目指したのだ。
中古船たった一艘で船出をし、今では世界第4位のコンテナ物流企業と成長させた、まさに海運王である。
東日本大震災後の被災地には、個人名義で10億円を寄付したことでも知られている。被災地の動画を観ては涙されたそうだ。
自ら船長として動物的な感性を信じ、大海原で船が転覆すりやもしれない嵐を何度もくぐってきた、まさにワンピースの主人公「ルフィー」を彷彿とさせる人だったのではないだろうか。
2016年1月20日、88歳で亡くなられた同氏は、日本と台湾の経済の架け橋として尽力されたことを評価され旭日重光章も受賞されている。
「船の操船は、会社の操業に非常によく似ている。生前、よくお話されていた言葉だという。
時代の背景があったとはいえ、海運出身の実業家としてここまで大きな組織になった例は世界のなかでも非常に稀だ。
明治維新のころの日本の勢いにならい、武士道の精神を持って走り抜けたサムライと、一度でもいいからお目にかかってお話を伺うことができたていたら、なんてたわいもないことを考えて家路についた。
ニートの歩きかたを読んで
「だるい」、「めんどくさい」。
未就学、未就労、未就活の「三M」がニートの定義だが、日本でも生活の上で会話のなかに普通に出てくるようになって久しい。
このニートって言葉は、ニート先進国のイギリスで生まれた言葉だが、ニート率でみても日本の二倍にものぼるらしい。
べつにニートに憧れがあるわけじゃないが、海外でも普通に市民権を得ているニートの世界観をみてみたくて、今さらながら、日本のニートブームの先駆けになった「ニートの歩きかた」を読んでみた。
働くために生きていないか?
当たり前だが、生きるための金を得るために、労働があるはずだが、働くために生きている人がとても多い気がする。
大企業の社員が自殺に追い込まれる事件が後を絶たないが、本来目的のはずだった「生きるため」が、いつの間にか労働が目的になっていないか?
筆者は、この本の冒頭でこの問いを投げかけることから物語りが始まっている。
社会との緩やかなつながり
少し前までは「引きこもり」という言葉で表現されていたように記憶しているが、自分の世界に入ったまま家でダラダラ過ごす人種のこと、くらいにしか認識がなかったように思う。
2000年くらいからのITのオープン化の流れによるパソコンの低価格化、ネットワークのブロードバンド化による双方向コミュニケーションが身近になったこと、WEBを中心にしたソーシャルメディアの発達。
IT業界に身をおく立場からみても、この20年の進化は、目が回るくらいの激しさに感じる。
特にソーシャルメディアの出現は、ニートにとって、社会とつながる糸電話の位置づけとして必須のツールになっている。
必要なタイミングで必要なものを、この無料の糸電話を使えば自由自在に手にいれることができる時代である。
この本の筆者もニートとして社会と「緩やかに」つながる手段としてのインターネットの重要性にたびたび触れている。
社会と個人のつながりのあり方は、会社などに属することによる「密結合」にあわせて、本人が必要なときに緩くつながる「疎結合」があるべきだ、と唱えている。
にんきょう(任侠)
ヤクザのことではなく、社会的弱者を助けるためのマインドのことを指しているのだが、日本で任侠というとヤクザのイメージしか、残っていないのではないだろうか?
この任侠の語源は、中国から来ており、紀元前500年にさかのぼる。ときは中国の戦国時代に最強と言われた孫子が、孫子の兵法を唱えた時代である。
中国の国土は日本の国土の23倍ある。
国土の広さだけ、異民族があり言葉や文化ぎ違うわけだ。
当然ながら全土を中央政府が統治をするのが容易ではなく、結果的に賊が蔓延り無法地帯となっていた。
この時代に、自治体が自衛手段として、賊から庶民わまもる機能として発展しだのが、任侠なのだ。
ニートがかならずしも社会的弱者とは思えないが、シングルマザー家庭や、非正規雇用による低所得家庭などへ貨幣価値で生活の質が大きく変わってしまう都市部では、もう少しこの「任侠」の機能を真面目に装備する必要がある気がする。
資本主義の終焉
誰がみても明らかなのが、株価の上昇で、大企業の内部留保は肥えたが、一般市民の給料は低いまま、であること。
「会社が人生を豊かにしてくれる」時代は、とうに終わっている。
まとめ
「一流大学でて、一流企業に入れば一生安泰」なんて時代は、終わってるのは周知の事実だ。
少しでも、自分の手で稼ぎ出す技術が、これからのシニアには必須な条件だ。
「めんどくさい」なんて、言っている間に少しでも手を動かして、収入源を増やす努力をしたい。